季節がらなのか、人生のいくつかのうちの一つの折り返し点ということなのか
この1週間で憂鬱な気分に取りつかれている。

きっかけは、、、たぶん、1週間前の実家からの連絡。

「梅酒作ったから、取りに来なさーい」

これには何の意図もない。きっと。

でも、それを「面倒くさいなあ」と思ってしまった自分。
そんなの取りに行く時間あれば、走りに行きたい。
でも実際には走ることが日課になっていない毎日。
寝て休みを取りたい。でも毎日満足に寝る時間も確保できていない日々。実際には寝床に入ってからスマホをいじっているという無駄な時間を多く過ごしている。

それなのに、徒歩10分足らずで行ける実家に行くことさえ煩わしいと思う自分に落ち込んでしまった。

実家に行けば、実家のイヌが私を見つけて「散歩に連れて行って♪」と期待に目を輝かせてまとわりついてくるであろう姿が目に浮かぶ。それを見て見ないふりをして通り過ぎた後、彼らはガッカリとして寝床に戻るんだろう。

ここ最近、夜になるととにかく寝たくなってしまう自分。
仕事内容は大したことをしていないのに、拘束時間を長く感じる。
家事だって大したことをしていないのに、3食×2人分作ることだけでさえ、つらいと思う。

そして今日、1週間後の週末にやっと実家に行って、これから梅酒になるであろう大瓶を受け取った。
家に戻って大瓶をみているうちに、なんだか自分がとても情けなく感じた。

小さい頃は家族総出で庭の梅や杏をもいで終わった日曜日をとても楽しく感じていた。
その時の母の年齢をとっくに超えたというのに、いまだに梅干しや梅酒を作ったこともない自分。
今や収穫でさえ全くかかわっていない。

両親も叔母も今でもあの、昔住んでいた家の庭になっている梅や杏の実を取りに行っている。
あの庭で採れた杏ジャム以外おいしいジャムを知らない。
梅干しはお金を出して買ったことがない。
梅酒は、、、実家で作ったもとより酒場に置いてある梅酒の方がおいしいと思う、正直言って。

でも、これまでそれを当たり前のように受け取って消費することしかしていなかった。
作る過程に一切かかわっていないのに、この先両親がいなくなったらどうすればいいのだろう。

おいしい梅やアンズを作るのに、どれだけの週末を両親はつぶして車で昔住んでいた家に通ったことだろう。
肥料を与え、土を耕せばよいのだろう。
それだけの水を使って実をきれいに洗い、器具を消毒してこれを作り出しているんだろう。
その時間をまったく自分は知らない。

でも、その手間暇かけて作った成果を私は面倒くさそうに受け取ってしまった。

いいんだろうか、これで。
これで、自然が好きとか、どの口が言ってるんだ。

私が愛していると思い込んでいた自然って、そこにあるものをただ単に見るだけで終わっていた。

春先にきれいだね、と言って眺めていた花はその後実になることを忘れていた。
そして、自然の恵みを受け取って食べられるように作り上げていく時間をまったく持てない。
そんな生活でいいんだろうか、という思いがここ数日消えない。

仕事していれば梅干しを干す時間をどうやって持てというんだろう。
でも、仕事をしながら子供を育てる人がいるように、今の季節実を収穫して洗って梅干し作りをやっている人もきっといるのだろう。

そういう人に自分は程遠いところにいる。
走るよりも、ゴロ寝するよりもそういう時間を持つことが大事じゃなかろうか。

これまで、平日は仕事して、その分週末はリラックスしてまた仕事を頑張る、というサイクルにいることに何の疑問も持たなかったけれど、でも、煩わしいことはやらないでいいのかな。

来年までこの気持ちを持ち続けられるだろうか。
いや、この気持ちは消すべきではないと思う。
来年は自分が育ったあの家に行って、実をとってこよう。
私が木に登って実をもいでこよう。
そして自分が収穫したものを立派な梅干しにしてみよう。

そうしたら、今のこの気分からやっと解放される気がする。